とにかく時間がない。
自分の使える時間がまったくない。
家事、仕事、家族のこと、子どもの要求で自分の時間は食いつぶされていく。

だれしも一日24時間が与えられているのに時間が足りない

そう。だれしも一日24時間が与えられている。平等に。

だけど。

女性は母親になって仕事に復帰したとたんこの問題に直面する。睡眠に8時間とれたとして残り16時間。仕事で8時間、通勤に往復2時間とられたら残りは6時間。その中でごはん作ったり洗濯干したりお風呂入れたり掃除したりしているのだから時間はあっという間に消えていく。

夕飯を作りながらLINEが来れば何度もメッセージを往復しながらお鍋の火加減も調節する。
電話が来れば左肩でスマホを挟んで話をしながら玉ねぎを切ることだってできる。

女性はそうやって複数のことを同時にこなしながらさらに子どものおしゃべりに返答したりしている。ものすごい能力だと思う。

でもこうやって効率化しながらも時間をうまく調整しても、結局「私には時間がない」なんとも言えない虚しい感情だけが残る

インターネットから離れて初めて見えた「時間」

今、私はある理由で自宅でWi-Fiが使えません。
否応にもインターネットから離れるざるを得なくなってしまいました。

日本のようにすぐ通信契約できればいいけれどこちらでは銀行口座がなければだめ、しかも外国人が口座をつくるには諸々手続きが必要で契約までの道のりが遠い。

スマートフォンのプリペイドでデザリングを試みようものなら容量が目に見えて減っていくためこちらも長時間はNG。なので接続が必要な作業はカフェや図書館のWi-Fiを借りています。

結局、何年ぶりかにインターネットが登場する前に近いような生活に戻ることになりました。

そこであらためて気づいたのは、いかにいままでインターネットにどっぷりだったかということ。日本では接続時間も考えず好きなだけネットができていたので、あらためて考えたこともなかった(調べものも多かったし…などと理由もつけてみる)のだけど、普段はいかにネットに依存しているかをとても実感することになりました。

そして同時に見えてきたのが「時間」。
その時間にも「質」があるということに気づきました。
暇つぶしの時間であればどれだけあってもやっぱり虚しさが残るのですが、好きなことに時間を使うことで心がふっくらと豊かになることを久しく忘れていたと感じたのです。

じぶんの時間をどうするかはじぶんで決めなくてはいけない

パソコンに向かっていた時間はあるときは読書の時間になりました。

娘の誕生日に贈ったミヒャエル・エンデの「モモ」。
日本を経つときに数冊持ってきた本のなかのひとつです。

時間がない、ひまがない ――― 人々は時間貯蓄銀行に自分の時間を預け時間をどんどん節約していきます。その先に約束された「よい暮らし」を求めて。日々のおしゃべりも楽しい遊びもすべてやめて時間を倹約しつづけます。宇宙や星の声、人の話にゆっくりと耳を傾け、たっぷりと時間のあるモモだけは除いて。

人間の時間を盗んで生きる時間どろうぼう(灰色の男たち)の正体を知ったモモは、時間の国の主に尋ねます。

「時間どうろぼうが人間から時間をこれいじょうぬすめないようにすることだって、わけもないことでしょう?」

「いや、それはできないのだ。というのはな、人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはいけないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。わたしにできることは、時間をわけてやることだけだ。」

時間は逃げずにいつでも平等にそこにあるからどう使おうと私の勝手。
自分で決めている。
たしかにそうです。

時間をどう使うかは自分が決めているでしょう。
だれかに指図されているわけではないのだから。

けれど「やらねばならならない(=私はやりたくないのに)」こういう時間の使い方をしていることは意外とあるのではないでしょうか。

やらされているという義務感。
しなくてもいいのにしなければという思い込み。
こうあるべきという固定観念。

時間を感じる心がなければその時間はないもおなじ

時間の国の主はいいます。

「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じるとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。

ちょうど虹の七色が目の見ない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじようにね。でもかなしいことに、心臓は生きてちゃんと鼓動しているのに、なにも感じとれない心をもった人がいるのだ。」


時間を感じとる心がないなら時間はないも同じ。

なんだか、今の私にすこーんと落ちる言葉を贈ってもらった気がします。

「時間がない」
「ひまがない」
「そんなことをしている余裕はない」…

どれだけこうやって時間を消していたことでしょうか。

「もし人間が死とはなにかを知ったら、こわいと思わなくなるだろうにね。そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」

「そう人間におしえてあげればいいのに。」

「そうかね?わたしは時間をくばるたびにそう言っているのだがね。でも人間はいっこうに耳をかたむける気にならないらしい。死をこわがらせるような話のほうを信じたがるようだね。これもわからないなぞのひとつだ。」

「あたしはこわくない。」モモは言いました。

わたしたちはなぜそんなに必死に働くのか。
なぜそんなに不安になるか。

突き詰めていくと結局、死がこわいからなのではないでしょうか?

仕事がなくなったらお金がなくなる。
お金がなければ食べていけない。
食べられなければ命にかかわる。
老後は働けないから貯蓄をする。
なにかあったときのために高い生命保険をかける。

すべては「恐れ」から発生している観念かもしれません。

人は決められた寿命を全うすれば死はだれにでも訪れます。それは怖いものではないと潜在意識は知っているのに、人間は怖いイメージをなぜか好きこのむのです。

時間の国の主の言葉には、私たちが頑なに信じて疑わない「恐れ」を絶対に手放さない愚かさに対して諭しているようにも聞こえます。

対してモモは「こわくない」ときっぱり。

それは恐れがないから。
お金がなくても助け合って食べていけることを知っているから。
自分の時間をたっぷり使って人々の話をじっくり聞くこと、それが何よりもお互いの喜びになることを知っているから。

時間の効率化だけを求めても心が虚しくなるだけ

仕事の効率化、家事の効率化、人生の効率化。
あらゆるものが時間をかけず短時間で済むことがよしとされています。たしかに仕事においては生産性を高めることは必要だと思いますし、時間配分を見直すことも大切です。

けれど人生には無駄と思えるものや寄り道もたくさんあって、それは一見なんの役にも立たないようだけれど実は心の豊かさにつながっていると思うのです。

仕事も家事も効率化する目的は「心豊かな時間」をつくるためです。

自分の心がふっくらと温かくなる時間。
それは自分だけの時間かもしれないし、子どもとの時間かもしれません。
家族やたいせつな友人との時間かもしれません。

そのための効率化であって、時間節約が目的になってはいけないのです。
せっかく創り出した時間を時間どろぼうに盗まれてはいけないのです。

ふとSNSのタイムラインをなんとなく眺めたり、何気なくリンクをたどってみたり、疲れてぼうっとテレビをみること。誰にでもありますよね。会社から帰宅して息抜きもできない。まずはちょっと座らせて…とスマホに手を伸ばす。

そんな日々が続いていて虚無感が増すようなら、もういちど「時間」について考えてみるといいかもしれません。

じぶんの時間はじぶんでまもる。

知らないうちにあなたの大切な時間を灰色の男たちに盗まれないように。

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