夏休み真っ只中、大人にとっては気温を聞くたびにクラクラしますが、子どもは毎日飽きもせず元気に飛び回っています。
娘の夏休みは早朝から集まるラジオ体操にはじまり、朝食を食べたら夏休みの宿題にとりかかり、その間に友だちと連絡をしたりしながら午後は学校の解放プールでみんなではしゃぎ、ひきつづき友だちと遊びつくして自転車で帰ってくる。こんな感じで一日が終わっています。 もうみごとにまっくろ。
夏休みというと、ひまだあぁダラダラ~というイメージがあるのですが、こと娘を見ていると毎日遊びに読書にあっというまに過ぎ去っていく。まあご多忙なこと…と思いながらも同時にいい経験をしてるなあと思うのです。
コンクリートに囲まれていた私と自然に囲まれて過ごす娘
自分の子ども時代、小学校高学年の夏休みを思い出してみると、友だちと存分に遊んでいたことはあまり思い出せません。朝から通勤の大人に混じって満員電車にのりこみ、きんきんに冷え切った窓のない某大手塾のコンクリート部屋で「夏季集中講習」なるものを受けていました。
特に中学受験をするわけでもない子も私の周りでは高学年になると塾に通いだすか、夏期講習や冬期講習に通う子がたくさんいました。おそらく地域性もあるのでしょう。都心に近づくにつれ、通勤ラッシュで毎日学校や塾へ通う私立の制服を着た小さな子供たちが増えていきました。
周りと同じように行動することになんの疑いも持たず、朝から通勤の大人たちにぎゅうぎゅうに揉まれながら夏期講習に行くのはあたりまえと考えていたあの頃。はじめて「偏差値」というものさしで自分が測られ、ランク付けされることに違和感を感じながらもそういうものだと流されるままになっていました。
満員電車では塾や習い事の行き来に何度痴漢にあったかわりません。怖くてなにも言えず、大人は汚くて恐ろしい存在として脳裏に焼き付いた記憶はずっとなくなることはありませんでした。
一方娘はというと、たまに宿題をやりながらも思い切り遊ぶ絵に描いたような夏休みを謳歌しています。通勤ラッシュなんてもちろん体験したことがないしそもそも普段電車にのることがありません。痴漢という概念もないでしょう。とはいえ、時代もあり不審者情報は入りますし、その対応は学校、家庭でも伝えていますが、私の体験談を話すことはありません。というのは、今子どもたちを温かく見守ってくれている地域の人たちから一番大事な「信頼」というものを学んでいる彼女に今そのような情報は必要ないと思うからです。
人間関係の土台形成は新しい関わりのカタチへ
子供が人間関係の基本を学ぶのは、いうまでもなく親の影響が一番強いでしょう。
とくに母親の影響をもっとも強く受けることは自身の体験やまわりの友人に話を聞いて納得するところです。それがわかるだけに、子育てが必要以上に重荷になってしまうこともしばしば。自分次第でどうにでもなってしまうことの重大さから目を逸らしたくなることだってあります。仕事をもちながら子育てをするお母さんに皆がみな寄り添う夫ばかりではないですし、深夜の帰宅でほぼ母ひとりで子育てしている例は枚挙にいとまがありません。
そんなときに母親とは別の目線で子どもを見守る大人がいればどれだけ救われるでしょうか。
それが祖父母かもしれませんし、保育園の先生であったり、地域の大人たちであったり、もう血が繋がっているかどうかは関係ないのではないかと私は思います。
ふりかえればこの地に来たときに最初にお世話になったのはNPOの子育て支援の方々でした。
保育園に通うようになってからは日中の生活を事細かに教えてくれる先生やはじめて引き受けた役員で親しくなった先輩ママの存在がとても助けになりました。
小学校では少人数の1クラスに不安もあったのですが、全校生徒が名前を知っていてすべての先生から娘の話を聞けることは、マンモス校で育った私には驚きの連続。
夏休みには、子供と教育のことをしっかり目を見て真剣に話してくれた学童のベテラン先生の言葉が今でも心に残っています。
習い事の先生も子どもの小さな変化を見逃さずしっかりキャッチしてくれている。
そして地域の方々から日々声をかけていただくなかで、娘は多くのひとたちに見守られ影響を受けて育ててもらっている。
夫婦で協力しながら子育てをする姿はもちろん素晴らしいことです。
でももっと家族という枠から離れて子育てを考えてもいいのではないか、三世代同居で祖父母に見てもらうという昔ながらの形だけでなく、人間関係の土台をつくる新しい関わりの形が特別なことではなく、これからスタンダードになっていくのではないかと感じるのです。
人との繋がりや五感を刺激する環境が近い場所
都会だと夏休みを満喫したり、人間関係の土台づくりができないわけではありません。
子供が興味を持ちそうなイベントは盛りだくさんですし、近場の自然を感じに日帰りで出かけられる場所やサービスも多いでしょう。そのような場を積極的に子どもに経験させているという方もたくさんいます。
先日友人から日頃東京から農産物を購入してくれるお客さまがわざわざ家族で訪れて、農家見学に来られたという話を聞きました。小学生の娘さんは畑からもいだばかりのトマトを食べて「あまーい!!」と感激されたと。何百キロも離れた農家の方に会うために遠路はるばる来るなんて、どれだけ熱心なんだ!?と驚いてしまいました。食に対してそれほどの熱意をお持ちのお母さんはむしろ都会のほうが多いのではないでしょうか。
彼女は友人にこういったそうです。
「あなたは幸せですね。こんな素敵なところに住めて美味しいものをいただけて」と。
おしゃれな店があるわけでもないただの田舎だと思ってたけど、ひとから言われないとその素晴らしさに気づかない。毎日食べているものがそんなに価値があるなんて思いもしなかった。友人はそう話していました。
自分の置かれている場所や環境はあたりまえだからなんとも思わない。
でも外から見たひとにはその価値がとてもハッキリとわかるものです。
都会がキラキラして見えることも、そして実際に輝いているひとたちがいることも事実。
田舎が温かい関係で繋がってみえることも、そして実際にひとびとの絆が強いことも事実。
でもそれらの事実もどう感じるかはひとによって違っていて、そして感じたことがそのひとの事実になると私は思います。
どちらが良い悪いではなく、自分がどこに身を置くことが一番心地よいのかを常に探しながら選択すればよいこと。私は実際に身を置いて湧き上がる五感の感覚をバロメーターに、そして娘自身の表情を観察して判断しています。
すぐ近くに山と緑があり、川が流れてほたるが舞う環境で信頼できる人に囲まれて暮らす娘にとって、あの頃の私の生活はとても想像ができないでしょう。誰しも自らの経験からしか比較することはできないけれど、少なくとも五感を刺激する環境にアクセスしやすい空間で子ども時代を過ごすことはこれから人生を形づくる子どもたちにとても大切なことではないかと私は考えています。
もう一度子ども時代に戻ることは不可能だし、どれだけお金を出しても買えないから。
それこそ本当の豊かな暮らしだと思うのです。
ある日の夕暮れ(自宅近くで撮影)※音が出ます
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