子どもは褒めて育てることがよいとされる風潮がありますが、私は少し懐疑的です。
もちろん本人が頑張った結果やその過程を見て努力を褒めることはありますが、なんでもかんでも褒めればいいというものではないと思っています。

というのも、一時期「褒めなければ…!」と脅迫めいた感じで子どもと接していたこともあったのですが、褒められると子供は嬉しいのでもっともっと褒められることを要求してくるのですよね。褒められなかったらちょっとプチ切れるというのを見て、これはまずい、と思ったことがありました。

小学校高学年となった今、まだまだ親に見てほしいものがあるようなのですが、私が何かに夢中になっていると反応することすら忘れてしまうことがあります。
そのときの娘の落胆に気づいて慌てて「あッなんて言ったの??」と聞きなおすことがあるのですがこれは本当に反省です…。

褒めるとか叱るとか評価するまえにまず「認める」こと

認めるってなに?と思うかもしれませんが、それって「そうなんだ」「ふぅん」「へぇ」といったなんでもないやり取りなんですよね。

つまり、「あなたの話きいてるよー」「ちゃんと気にしてるから続けてー」というメッセージです。

大人だって話をしているときに何も反応がなかったらちょっと不安になりますよね?
相槌って意外と見落としがちだけどとっても大切な会話の潤滑油です。

ちょっと話はそれますが、いわゆる外人と話していてたまにぜんぜん相槌がなくひるむときがあります(多くはちゃんと相槌してくれます)。

目はそらさずにこちらを凝視しているので聞いてくれていることはわかりますが、ウンともスンとも言われないと不安になります。

なまりの英語を懸命に聞き取ってくれて感謝ですが、やっぱり仕草だけでもいいから「うんうん」的な動作は欲しいものです。

で、話は戻りますが、結局「認める」こともせずにいきなり褒めたり、叱ったり、感情に任せて怒ったりはもってのほかですが、こういう「評価」は子どもにとってあまり嬉しくないものだと思うので、「認める」をひたすら行うことにしています。

「認める」の反対は「無視」に気づく

「認める」をすっとばして褒めたり叱ったりと評価を下していることって結構あるのではないでしょうか。評価よりももっと基本的なものが、あなたの存在をちゃんとわかっているよ、と認めることです。

結局これが自己肯定にも繋がります。

親が自分を見てくれている、聴いてくれているという安心感は、褒められるより嬉しく、何かを無理やりしなければという気持ちを与えません。

そしてもちろん故意的でないにしろ、認めるの反対は「無視」であり、顔も見ず反応しないということは無視していることと同じです。あなたはそこにいないと存在そのものを否定するわけですから、それが続けば子どもが負う傷は想像以上でしょう。

そんなに大袈裟なこととは考えもせず、私も自分の作業に没頭しているときには子どもの話もおざなりになってしまうのですが、気づいたときに軌道修正し、きちんと謝って正面から向き合うよう心がけています。

承認要求も結局「認められたい」に集約されている

SNSが台頭して承認要求という言葉をよく聞くようになりました。

結局は褒められたいより「認められたい」が人間の基本要求なのではないかと感じます。

認められる経験を十分にしていればそこまでSNSに依存することもないと思うのですが、怖いのは諸刃の剣であって、認められることもあれば無視されることもあるという。だからこそ依存性が高いのかもしれませんね…みなさんはどうお考えでしょうか。

キャンペーンやチャレンジ企画はメールマガジンご登録者優先でご案内しております。最新情報をお受け取りになりたいかたはこちらからご登録ください。
「ライフシフトデザイン通信」登録はこちら